第1話 『中年管理職、扉を開ける』

 2025年9月5日(金) <田中健一郎・52歳>

 あー眠い。

 明日休みだからいいけど、きついな。

 オレは社宅のマンションのドアを開けて電気をつけた。

 スーツの肩に、ずっしりと一日の疲労がのしかかる。

 文字どおりだね。マジで。重りでものっけてんのかってくらい肩が重い。

 あー、マッサージ行きてー。

 いや、エッチなやつじゃないよ。健全なヤツ。

 オレは部長待遇の大手重工業メーカーの機械工学者(航空機エンジン設計部)だ。

 聞こえは良いけど実際は若手と上層部の板挟み。

 もうね、ひとまず脱いで着替えるのすらダルい。

 まず靴を脱いで部屋に上がったら、冷蔵庫だよ。

 そこに買ってきたビールを入れて、中のビールを取り出して飲む。

 そっからゆーっくりゆーっくり上着を脱いでズボンを脱いだ。

 本当はベッドの上に脱ぎ捨てたいけど、結局我慢してハンガーにかけてワイシャツと靴下を洗濯機へ。

 それからテーブルに座ってコンビニ弁当を開けて食べる。

 毎日のルーティンだ。

 オレの他には誰もいない。

 妻とは離婚して大学生の息子と娘のために養育費を払っている。




 空になった弁当の容器をゴミ箱へ押し込んで、風呂に入ろうか迷うけど、とりあえず用を足しにトイレへ向かった。

 ごく普通の、どこにでもあるトイレだよ。

 ステンレスの無機質なドアノブに手をかけて開ける。




 ガチャ。(開)

 ん?

 ガチャ。(閉)

 見間違いか? スリッパがないし、何じゃこりゃ?




 何だあれは? ドアを開けた瞬間に鼻の奥に流れ込んできた強烈な臭い。

 カビと、湿った土とアンモニアの臭いだ。

 そして懐かしいくみ取り式トイレの臭いがした。

 ……何だ今のは?

 オレは缶ビール1本で酔っ払ったのか? まさか!

 恐る恐る、もう一度ドアを開けた。

 目の前には見慣れたトイレの空間はない。

 石を積み上げた壁が左右にある。床も石畳で、ひび割れた隙間からは黒い土が見えた。

 便器は……うわっ和式じゃねえか!

 え? これどーなってんの?

 でも、でも、しょんべんしたい!

 尿意だけはどうしようもない。

 オレはたまらずその和式のトイレに向かった……と、床にはスリッパもない。

 我慢だ。

 玄関からスリッパを持ってきて駆け込んだ。




 じょぼぼぼぼぼ……。

 あースッキリした。

 この瞬間は至福なんだよな~。




「でな、オレは言ってやったんだよ」

「へえ、それでどうなったんだ?」




 !

 誰だ?

 石造りの壁の角の向こうから声が聞こえる。

 やばいっ!

 とっさに物陰に隠れるが、相変わらず鼻を突く臭いだ。




 2人の話し声と足音が近づいてくるが、オレは息を殺して石壁の影に体を押し付けた。

 心臓がバクバクしている……見つかったらどうなるんだ?

 不法侵入者として捕まるのか? 殺される……?

「結局、魔法省の連中には敵わんさ。予算はまた削られるらしいぞ」

「ちっ、あいつらときたら。オレたちの技術を何だと思っているんだ」

 歳の頃は40代くらいかな。革と厚い布製の見たこともない服装をしている。武装していないから兵士じゃないのか。

 何だか……そう!

 ヨーロッパ中世の職人っぽい格好だ。

 映画の撮影か?

 いやいやいや!

 そんなこたあどうでもいい!

 何でうちのトイレにこんなのがあるんだよ!




 2人が通り抜けてからオレは物陰から出てドアを開けた。

 こっち側?

 のドアは古びた木製だった。

 オレは急いでパソコンの前に座ってAI検索をする。

 ――トイレのドアを開けたら異世界だった。何で?
 ――トイレのドアを開けたら異世界だった、という不思議な出来事には、フィクションの世界における「お約束」と、日本の文化的な背景が関係しているかもしれません。
 ・異世界への入り口としての「トイレ」~後略~
 ・「境界」としてのトイレ~後略~
 ――~前略~したがって、「トイレのドアを開けたら異世界だった」という出来事は、フィクションならではの劇的な演出であると同時に、トイレという空間が持つ「境界」の象徴的な意味合いがその不思議な体験の背景にあると考えることができるでしょう。




 いやいや違う違う違う!

 そんな馬鹿なクソみたいな答えを聞きたいんじゃない。

 フィクションじゃねえんだよ!

 そこにあんだよ! いたんだよ!

 このマンションは14階建ての7階で、トイレの隣は隣の部屋!

 開けたら湿っぽい石畳のぼっとん便所なんてあり得ねーんだよ!

 異世界? ワームホール? パラレルワールド?

 いやいや、オレは物理学の専門じゃないが機械工学者だ。

 4力学(材料力学・流体力学・熱力学・機械力学)と金属材料学、精密加工技術や内燃機関設計に加えて制御工学の基礎知識も、広く浅くだが網羅している。

 それぞれの専門家には負けるが、いわゆる科学者の端くれだ。

 科学者なら科学的に考えなきゃならん!




 ……考えて考えて考えて。

 ……ググってググって論文も調べまくって。

 1つの結論に達した。




 ――ブレーン宇宙論。

 実証されてはいないけど、ファンタジーの世界じゃない。

 SFみたいに聞こえるけど、世界中の優秀な科学者たちが本気で研究している、ちゃんとした科学の仮説なんだ。

 ざっくりかいつまんで言えば、この世界が実は巨大なパンのスライスの一枚みたいなものだ、と考えてみてくれ。

 これが現代物理学の『ブレーン宇宙論』という考え方だ。

 そんで、そのパンには当然、すぐ隣に別のスライスがあるだろう?

 それがさっきオレが見た異世界、つまりパラレルワールドだ。

 いつもは決して交わらないスライス同士だけど、何かの拍子にごく一部がくっついて、小さな穴が開いてしまったのかもしれない。

 つまり、証明できないあり得ないことが起きてはいるが、理論的に実在の可能性があるってことで、大真面目に研究されている世界だってことだ。

 あー疲れた。

 なんで今、しかもオレん家のトイレがつながったかは不明。

 これ以上やればオレの頭がパンクする。

 多分もし、向こうの世界に魔法が存在してドラゴンやエルフなんかがいるんなら、魔法の、何て言うの? 魔素? の異常発生やら魔力場の暴走とでも言おうか……。

 今のところ原因不明の理由でつながった、と。




 オレの中ではそれで納得した。

 信じられないけど、可能性が0じゃないから否定できない。

 おかしい。

 頭がガンガンする。

 とにかく、今日はもう寝る。

 明日もこの状態が続いていたら、その時また考えればいい。もしかしたら一晩寝たら、ただの疲れたオッサンの悪夢でした、ってオチかもしれん。

 そうであってくれ、と願いながら、オレはベッドに倒れ込んだ。




 次回予告 第2話 (仮)『王国暦1247年』

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