第33話 『煉瓦』

 1591年11月 オランダ アムステルダム

「よし、方針は決まった。オレたちは鋼鉄を作る。この時代にはまだ存在しない、全く新しい価値をオレたちの手で生み出すんだ」

 アカデミーの会議室は、これから始まる巨大な事業への緊張感に満たされていた。

「ハインリヒ、具体的な段取りを説明してくれ。何から始める?」

 フレデリックに促され、ハインリヒは携えていた分厚い羊皮紙の束をテーブルに広げた。

「これがオレの知る限り、現状で再現可能、かつ最も効率的な高炉とコークス炉の基本設計図だ。まずは、全ての基礎となるこの2つの建設から始める」

 緻密な線で描かれた図面は、この時代の常識をはるかに超える構造を持っていた。

 コークス製造の炉はビーハイブ炉、高炉はジェームズ・ボーモント・ニールソンの熱風炉を参考にしたのである。

 動力は蒸気機関が未開発なので水力を利用するが、いずれは蒸気機関に変更する予定だ。

 さらにハインリヒは新しい羊皮紙を広げると、携えていた木炭で力強く線を描き始める。

「そんで、こいつらと連携させる形で、ここにトーマス転炉を設置する。高炉で作った銑鉄を直接この転炉に運んで、鋼鉄に精錬するんだ。詳しい設計にはこれから急いで詰めていく必要があるけど、全体の配置と規模の構想はこうだ」

 木炭が走るたびに、巨大な工場地帯の骨格が羊皮紙の上に現れる。

 まだラフな構想図に過ぎなかったが、描かれた未来の姿は見る者を圧倒する力を持っていた。

「なるほど。ステップとしては、まず完成している設計図を基に高炉とコークス炉の建設準備を開始する。それと並行して、トーマス転炉の詳細設計を進めるんだな」

「いや、そう単純な話じゃねえんだ」

 ハインリヒはフレデリックの言葉をさえぎって、険しい顔で首を横に振った。

「最終目標のトーマス転炉。こいつ自体が、分厚い鋼板をリベットで留めて作られている。つまり、鋼鉄を作るための機械を、鋼鉄で作んなくちゃいけない。鶏が先か、卵が先かって話だ」

 会議室がざわめいた。

「……いや、ちょっと待って。それなら、耐火レンガもそうじゃないか? 耐火レンガを作るための炉は、どうやって? 何を材料にして作るんだ?」

 フレデリックが追い打ちをかけた。

 しかし、良く考えれば分かる。

 鶏と卵の問題が2回あるのだ。

 ハインリヒは苦々しい顔をしているが、それでいてどこか面白がっている表情である。

「……たいしたもんだな、フレデリック。そのとおりだ。オレたちの計画は、至る所に鶏と卵の問題が転がってる」

 静まり返った会議室で、ハインリヒは羊皮紙に3つ目の炉、耐火レンガを焼くための『焼成窯』の簡単なスケッチを描き加えた。

「君の言うとおり、摂氏1300度以上でレンガを焼くには、その温度に耐える窯自体が必要になる。だけどそんなもんはこの時代には存在しねえ。だから、昔の日本の『たたら製鉄』でやる」

「たたら製鉄?」

「ああ。連中は最高の耐火粘土で炉を作っていたんだけど、それでも1回の製鉄でボロボロになる。だから毎回ぶっ壊して中の鉄を取り出していたんだよ。つまり、最初の炉は使い捨てだ」

 ハインリヒは途方もないロードマップを描き始めた。




(1)コークス炉の建設。
 全ての製鉄プロセスの動力源となる高品質な燃料「コークス」を確保するため、比較的原始的な炉でその生産を始める。

(2)耐火レンガの創出と進化。
 シャルルが見つけ出した最高の耐火粘土で、1回の操業で壊れるのを前提とした使い捨ての炉を組む。
 炉を解体しては、熱でセラミック化した内壁の残骸『シャモット』を回収し、次の炉の粘土に混ぜ込む。
 この「進化」のサイクルを繰り返し、炉の耐熱性を自己増殖的に向上させる。

(3)高炉の建設。
 進化した炉で焼き固めた本格的な耐火レンガを使い、高品質な銑鉄を大量に生み出すための恒久的な高炉を建設する。

(4)反射炉による錬鉄の生産。
 リエージュ産の鉄鉱石に含まれるリンを除去するため、炉床を石灰石で構築した特殊な塩基性反射炉を建設。
 高炉から生まれた銑鉄をこの炉で精錬し、最終目標の材料となる『錬鉄』を絞り出す。

(5)トーマス転炉の建造。
 反射炉で作り上げた錬鉄を鋼板に加工し、リベットで接合して最初のトーマス転炉を建造する。
 この転炉がひとたび火を噴けば、リンの問題を克服した本物の『鋼鉄』が、この国に初めて産声を上げる。




「途方もないな……。でも、やるしかない。ハインリヒ、誰が必要だ? そんで、最終的にどんくらいかかる?」

 フレデリックはあまりの工程の多さと煩雑さにうんざりしかけたが、ふうっと息を吐いてハインリヒに聞いた。

「まず、この地獄みてえな現場をゼロから立ち上げて、何百人も素人をまとめ上げるなら、ディルク・ファン・デル・メールしかいない。あいつの前世は土木専門のシビルエンジニアで、現場のプロだ。炉を建てちゃ壊し、また建てていくみてえな、試行錯誤の塊みたいな現場を管理するのは、あいつの専門分野だよ」

 ハインリヒはフレデリックの問いに即座に答えた。彼の頭の中では、すでに必要な人材の顔ぶれがリストアップされている。

「ディルクか。確かに、あいつなら適任だな」

 フレデリックは力強くうなずく。

「他には?」

「当然、この計画の最初の鍵を握る、耐火レンガ開発のチームだ。シャルル様に最高の粘土を探してもらって、ヨハンがそれを分析して最高のレンガのレシピを作る。この2人がいなけりゃ、何も始まらねえ」

 必要な人材の名が次々とあがる。

 現場監督、資源探査、化学分析。それぞれの専門家が、パズルのピースのようにはまっていった。

「……それで、期間は?」

 フレデリックが最も知りたいことを尋ねた。

 その一言に、室内の全員が固唾をのんでハインリヒの言葉を待つ。シャルロットは、その手の中でペンを強く握りしめていた。

「……正直、やってみねえと分からんのが本音だ。でもあえて言うなら……全部が順調に進んだとして、最初の『鋼鉄』が生まれるのは、3年後だろうな」

 ハインリヒは腕を組んで、しばらく天井を仰いでから厳しい現実を告げた。

「3年か……」

 フレデリックがつぶやいた。

 3年……。

 誰もが頭の中で繰り返す。

 それは、10年で産業革命を成し遂げて、日本への蒸気船による航海を目指している彼らにとって、あまりにも長い期間だった。

 間に合うのか?

 いや、それ以前に具体的な成果を少しずつでも出していかないと、株価が下がって投資家が逃げてしまう。

「内訳はこうだ」

 ハインリヒは淡々と続けた。

「まず、耐火レンガが安定して作れるまでに、最低でも1年はかかる。そこからコークス炉、高炉、リンを抜くための反射炉を建てて、最初の『錬鉄』が手に入るのが、おそらく2年後。その錬鉄でトーマス転炉を建造して、ようやく鋼鉄ができるのが3年後の計算だ」

 ハインリヒの言葉は、これが単なる思いつきの計画ではなく、緻密な計算と現実的な見通しに基づいている事実を示していた。

 しかしだからこそ、その困難さは揺るぎない事実として一同の肩に重くのしかかる。

「わかった。3年だ。それでこの国の未来が手に入るなら、決して長くはない」

 沈黙を破ったのは、フレデリックだった。

 椅子から立ち上がると、円卓を囲む仲間たちの顔を一人一人、見渡した。その目には、いかなる迷いもなかった。

「アカデミーの総力を挙げて、この計画を断行する。リエージュへ向かう先遣隊を正式に決定する。現場総監督にディルク、資源探査はシャルルおじさん、お願いします。化学分析と開発にヨハン。おじさんと君たち2人を、この国の未来を築くための最初の開拓者として、リエージュへ派遣する」

 さらにフレデリックはアムステルダムに残るハインリヒに向き直った。

 彼の役割は、現場に赴く者たちと同じくらい重要である。

「ハインリヒ、君はここに残って技術的な司令塔となってもらう。最優先の任務は、反射炉の完全な詳細設計図を完成させることだ。リエージュのディルクたちが耐火レンガのメドをつけた段階で、すぐに建設に取りかかれるように、完璧な図面を準備してくれ。これがないとリンを取り除けないんだろ?」

 フレデリックはニヤッと笑って一度言葉を区切った。

 まだラフな構想図に過ぎないトーマス転炉を指し示す。

「反射炉の設計が完了したら、トーマス転炉の基礎設計に着手するんだ。実際に建造するのは3年後だとしても、その構造はオレたちが作る物の中で一番複雑で巨大だ。今から設計を始めなきゃ到底間に合わない。材料の錬鉄の性質を見極めながら、最高の炉をじっくりと練り上げてくれ」




「任せておけ」




 ハインリヒの返事は短く、しかし自信に満ちて答えた。




 次回予告 第34話『リエージュへ』

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