1986年(昭和61年)5月3日(土)~5日(月)
話は少し遡って連休2日前の木曜日の放課後、練習が終了して下校時間を迎えた体育館裏。
コンクリートの壁を拳で叩く音が響いた。
「くそっ! ったく、やってらんねえな」
その声の主は3年の川口崇広。
剣道部主将だ。
彼の顔は怒りで歪み、制服の第一ボタンは外され、カラーははめていない。
上着は中ランで、ズボンはいわゆるドカンズボンである。
周囲には同じく3年のバレー部のエース、比良山信行をはじめ、数人の男子生徒が集まっていた。悠真と同級生の遠山修一(バレー部)や田中勇輝(剣道部)もいる。
同じ小学校の小林正人も剣道部だ。
「連休中も毎朝練習だってよ。しかも9時集合じゃなくて、7時だぞ? ふざけんな!」
川口が再び壁を殴る。
その音に、たまたま通りかかった悠真と祐介が振り返った。
「あれ? 何やってんだ?」
悠真は小声で祐介に尋ねた。祐介は肩をすくめる。
「さあな。でも関わらないほうがいいんじゃね?」
祐介の言葉に頷こうとした瞬間、川口の声が悠真に向けられた。
「おい、風間! こっち来いよ」
「いや、遠慮しておきます。では先輩、さようなら……」
悠真はそう言いながら、くるっと反対を向いてさっさと帰ろうとした。
くそ不良ヤンキーの先輩には関わりたくないのだ。
ただでさえリンチにされた過去がある。
もっとも翌日以降やり返したのだが。
しかし、その一歩を踏み出すより早く、川口の声が再び飛んできた。
「おい、待てっつってんだろ!」
「何ですか先輩、オレはあんたたちに関わりたくないんですよ。まじで。労力の無駄なんです。オレの時間を奪わないでよ」
後悔はなかった。
この手の連中と一度でも甘い顔をして関わってしまえば、際限なく時間を、労力を、そして精神を削り取られることになるのを、彼は身をもって知っていたからだ。
あの時の屈辱、そしてそれを乗り越えた後の解放感。
二度と、あの泥沼に足を踏み入れるものか。悠真は、川口から目を逸らさずに、しかし一歩も引かない姿勢で立ち尽くした。
中身は51歳のおっさんで、過去の自分を知っている。
前世の悠真は、イジメの対象だった。
体育用具室に連れて行かれ、分厚いマットレスに挟まれて、プロレスの練習と称して上から数人が乗っかってきたのだ。
死ぬかもしれない。
マジで死を意識した。
子供だから、なんて理由は通用しない。
もしあの時、オレが死んでいたら、少年ABCなんだ。
あの時の恐怖に比べたら、ここで殴られても構わない。
そして絶対に100倍にしてかえす。
毅然とした態度で、冷めた目で見たのだ。
川口の顔が怒りで真っ赤になる。
振り上げた拳が、悠真の鼻先にまで迫った。
誰もが息をのむ。
だが、悠真は微動だにしない。ただ冷めた視線を川口に向け返すだけだ。一切の恐れを知らない、むしろ挑戦的ですらある眼光に、川口の拳がぴたりと止まった。
「っ……ちっ!」
川口は歯を食いしばり、荒く息を吐き出すと、振り上げた拳を不自然なほどゆっくりと下ろした。
「……てめぇ、覚えてろよ」
呻くように言い放つ。その声には、まだ怒りの炎がくすぶっていた。しかし、先ほどの勢いは完全に失われている。
「おい、悠真、いいのかよ? 後からやられっぞ」
「よかさ別に。やられたらやり返せばいいんだよ。前に1回やってるしな。懲りないやつらだ」
すっかり体育館から遠ざかった祐介が悠真に聞いたが、悠真はどこ吹く風だった。
「おい! お前ら、何やってんだ! 明日も朝から練習なんだぞ。早く帰れ! 川口! 主将のお前がそんなんでどうするんだ! バレー部の事は知らんが、お前がしっかりやらんといかんだろうが!」
部活動が終わって、最終の見回りをしていた剣道部の顧問、中尾であった。
ジャージに着替えてはいるが、竹刀を小脇に抱えたその姿は、いかにも厳格な剣道部顧問といった風情だ。
顔は少し日焼けしており、皺の刻まれた目尻が、普段から生徒たちに厳しく接していることを物語っている。
不良グループはまるで潮が引くように静まり返った。
川口たちは不良ぶってはいるものの、いわゆる校内暴力や窓ガラスを割ったりする生徒ではない。反抗的な態度をとりつつも、結局は最後には従うのだ。
「ちっ……」
川口はもう一度小さく舌打ちをしたが、悠真に対してのような荒々しさはない。
明らかにトーンダウンしている。
「川口! 聞いてんのか! 主将のお前がだらしないと、部全体が緩むんだぞ! この連休中、どれだけ追い込むつもりだったんだ? なんだその格好は! カラーをつけろ! 学校指定の制服があるだろうが」
制服に関してもそうだ。
普段、小言を言われるが、公に注意されるのは服装検査や持ち物検査のときくらいである。
ところがタイミング悪くたむろっているところを見つかったから、余計に指摘されたのだ。
「返事は! ? やる気あんのか? ないなら今すぐ辞めてしまえ!」
「はい! わかりました! 辞めます!」
え?
その場の誰もが思った感想だ。
辞める?
「わかりました。剣道部、辞めていいならやめまーす」
正直なところ、学校生活における部活動の参加不参加は、協調性や我慢強さ等々、学力以外の生徒の素養をみる重要な要素であると言われていた。
今世でもそうである。
しかし、高校受験にどれほど影響があったのか?
ははなはだ疑問である。
51脳搭載の悠真はそう思っている。
ただ、この場の川口の発言は何の根拠もない、勢いにまかせた発言だった。
顧問の中尾は、川口の予想外の返答に一瞬言葉を失った。
竹刀を抱えた腕がぴくりと動く。
「な、何を言っているんだ、川口! 主将だろう! 軽々しく辞めるなどと言うな!」
普段厳格な中尾が、明らかに狼狽しているのがわかる。
主将である川口の退部が部活動に与える影響を、瞬時に計算したのだろう。
「いや、だから辞めますって言ってるじゃないですか。やる気ないなら辞めろって言われたんで。今まさに、やる気、さらになくなりました~でわ!」
川口は悪びれる様子もなく、むしろ少し楽しんでいるような口調で答えた。言い終わった川口はカバンを手に取り、帰ろうとしている。
周囲の生徒たちはこの展開に驚きつつも、固唾を飲んで見守っていた。彼らにとって、川口が顧問にここまで反抗的な態度をとるのは初めてのことだからだ。
「それじゃあ先生! オレも! 辞めまーす!」
「じゃあオレも!」
2年でレギュラーの小林正人と田中勇輝も便乗した。
他にも剣道部はいたが、様子見である。残りはバレー部だから中尾には関係ない。
「じゃあオーレもっ。せんせーまだいるかな? いないなら明日言おうっと」
1人、また1人と退部希望者で出てくる。
バレー部まで飛び火して、比良山信行と山内勇人も便乗してきた。
「ま、待てお前ら! よく、よーく考えろ。中学のこの時期は、やり直そうったって、できないんだぞ。……よし、わかった。ひとまずこの件は預かろう。家でご両親とも話して、明日また、いや、連休の練習……。明日、話そうじゃないか」
「はーい、わかりました~。でも、明日になっても変わらないと思いまーす」
川口はそう言って体育館を後にし、他の生徒もぞろぞろと後をついて行った。
次回予告 第76話 『退部届ドミノ』

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