第23話 『密かなる協力者たち』

 1591年1月26日(天正19年1月2日) アムステルダム

 アムステルダムの運河沿いにある赤い屋根の工房。

 夜の闇に紛れて、フレデリックとウィルは若き時計職人、ヘンドリック・フローネンの秘密の工房を再び訪れた。

 フレデリックには護衛と家庭教師のヨハンも同行し、厳重に警戒している。

「今夜も頼むね」

 フレデリックが護衛にそう告げると、彼らは無言でうなずいて周囲の警戒を始めた。

 子供二人が夜間に外出するのは危険だが、総督の弟の頼みであり、命令である。

 護衛たちはフレデリックがまだ小さい頃からの顔見知りで、冗談も言い合える間柄だ。

 転生したフレデリックは人が変わってしまった。

 しかし、それでも守り役のヤンや家庭教師のヨハン、それから護衛の二人は気の置けない仲間として変わらずに接している。

 工房の裏口をノックすると、すぐに若い職人が顔を出した。

「お待ちしておりました」

 ヘンドリック・フローネンは二人を中へ招き入れる。

 工房内には数人の若き職人たちが集まっていた。

 ヘンドリックに加え、分度器の名手ヤコブ、金属加工のディルク、天文時計専門のマーティンなどである。

「では、早速始めましょう」

 ヘンドリックは作業台の上に広げた図面を指差した。

「この図面をもとに、まず1分角の精度を持つ目盛り円盤を製作します」

 フレデリックはウィルと目を合わせ、小さくうなずく。

「そこにノニウス目盛りの原理を適用すれば、理論上は10秒角程度の読み取り精度が実現できるはずです」

「ノニウス目盛り?」

 ヘンドリックが首をかしげた。

 知らないのも当然である。ウィルが一歩前に出て説明を始める。

「ポルトガルの数学者ペドロ・ヌネスが考案した、特殊な目盛りの読み取り方法です。主目盛りと副目盛りを組み合わせると、従来の方法では達成不可能なレベルの精度が実現するんですよ」

 彼は紙に簡単な図を描いて示した。ヘンドリックと他の職人たちは興味深そうにのぞき込む。

「なるほど……」

 ヘンドリックの目が輝いた。

「確かにこの原理なら、私たちの技術でも実現できそうですね。主目盛りを刻むのは可能だし、副目盛りも同様に……」

「これなら物理的な限界を超えた精度を実現できる。ただし……」

 フレデリックが腕を組んで真剣な表情になる。

 6歳と9歳とは思えないほどの知識と大人びた振る舞いだ。

 しかし、ヘンドリックたちはギルド会議での彼らの様子をすでに知っている。

 特に驚かなかったのだ。

「加工精度が重要になりますね」

「目盛りの精度が悪ければ、この原理も意味がありません」

 マーティンの真剣な表情に、フレデリックが答える。

 工房の若い職人たちに対して、フレデリックは身分の垣根なく接していた。
 
 21世紀を生きた男が転生しているのだから当然である。

 それに合わせるように、職人たちもフレデリックを貴族のぼっちゃんではなく、リスペクトしつつも、年下として気兼ねなく接しているのだ。

 夜を徹しての作業が始まる。

 熟練の技を持つヤコブが特殊な分割器を用いて円周を均等に分割し、ディルクが細い針で真ちゅう板に精密な目盛りを刻んでいった。

 フレデリックとウィルは、自分たちの理論と知識を職人たちの実践的技術と融合させようと懸命である。




 ある夜、ヘンドリックがフレデリックを工房の奥の小さな部屋に案内した。

「実は、紹介したい人がいるんですが、構いませんか?」

 彼はそう言うと、側に立っている中年の男を手で示した。

「アドリアン・ファン・デル・スペルト、眼鏡職人のマスターで私の叔父です」

 アドリアンは背の高いがっしり体型の男で、穏やかな表情をしていた。その手には何か小さな箱を持っている。

「眼鏡職人?」

 フレデリックは興味を持って男を見上げた。レンズ加工の技術は測定器具の精度向上に不可欠だ。特に、望遠鏡の製作には欠かせない。

「わしは主に凸面ガラスを磨いております」

 アドリアンは箱を開け、中から丁寧に磨き上げられた凸面ガラスを取り出した。

 同時に、フレデリックとウィルを注意深く観察もしている。

 ヘンドリックから聞いてはいたが、神童だと言っても子供である。

 技術者で、学問的な事な知識は乏しくても、自分の技術が役に立つなら面白いが……。

 半信半疑のアドリアンが話し出す。

「ヘンドリックから話は聞いております。これは最近仕上げた品だが、従来よりも像のゆがみが少なく、小さな物もよく見える。反射光を使った新しい器具を作るなら、わしの技術が役に立つかもしれませんな」

 フレデリックはガラスを手に取り、ろうそくの光に透かして見る。確かに、縁まで驚くほど透明度が高い。

「叔父は独自の磨き方を持っているんですよ」

 ヘンドリックが誇らしげに説明した。

「曲面を均一に仕上げるのが難しいんだが、叔父なら……」

 レンズ? ……これは他にも使えるぞ!




 その日以降、フレデリックはアドリアンと共に別の実験を始めていた。

 レンズを使った光学機器の製作と実験だ。

「このレンズ、二枚組み合わせたらどうなるんでしょう?」

 アドリアンは首をかしげた。

「二枚? なぜじゃね?」

「ええと、例えば……」

 フレデリックは言葉を選んだ。

 前世の知識で、レンズを組み合わせれば望遠鏡ができる事を知っている。しかし、それをストレートに言えば怪しまれるかもしれない。

「一枚のレンズでこれだけ物が大きく見えるなら、二枚ならもっと面白い効果が期待できるかもしれません。実験してみませんか?」

 アドリアンの目が輝いた。

「なるほど。単純な発想だが、確かに興味深い。試してみましょう」

 その夜、工房の片隅で、フレデリックとアドリアンは二枚のレンズを様々な距離で組み合わせて実験を始めた。

 まだ誰も見た事のない光学現象を発見できるかもしれない――。

 フレデリックは結果を知っていたが、アドリアンは心を躍らせた。

 二人は様々な組み合わせで実験を繰り返していく。

 その結果、『拡大観察装置』の方がより早く成功し、初期の試作品は約20倍の倍率を実現したのである。

 一方、『遠望装置』はまだ像が不鮮明で、実用レベルには達していなかった。

 しかし、フレデリックはこの技術が天文学や航海、そして軍事にも革命をもたらすと知っているのである。




『レンズ研磨技術を向上させれば、もっと高倍率の観察装置も可能になるはずだ』

 フレデリックは研究日誌に記した。

『それには時間がかかるだろうが、その先にオレたちが未発見の微小な世界が広がっているはずだ。ウィルの天文観測と組み合わせれば、大きな世界も小さな世界も、両方の秘密を解き明かせる』




 フレデリックはそっと研究日誌を閉じ、工房の窓から夜空を見上げた。月明かりに照らされた運河の水面が、かすかに揺れている。

「アドリアンさん、これはもしかしたら……」

 フレデリックは慎重に言葉を選んだ。レンズの可能性をどこまで言及すべきか迷う。

「星の観測にも使えるかもしれません」

 アドリアンは手元のレンズを光にかざしながら、ゆっくりとうなずいた。

「ふむ。確かに月や星を見るのに使えるかもしれませんな。しかし、そのためにはもっと大きなレンズが必要だろうが……実はな、ちょっと気になる話がありましてな」

「何ですか?」

 アドリアンは話すべきかどうか迷っていたが、意を決して話しだす。甥の願いでここまで来て、驚くべき現場に居合わせたのだ。

 話しておくべきだ、と。

「実は、知っているかどうか分かりませんが、メガネの製造は非常に競争が激しく、秘密主義的なんじゃよ。他のギルドもそうだろうが、だから徒弟制度なんじゃ」

「はい、理解しています」

 フレデリックは黙ってうなずいている。

「ミデルブルフの同業者から最近興味深い話を聞いたんじゃよ」

 アドリアンは静かに言った。

「眼鏡職人のハンス・マーテンズとその息子ザカリアスが、二枚のレンズを組み合わせて物を拡大して見る装置を作っているそうですぞ。まだ若い息子のほうが、特に優れた才能を持っていると言われている。噂じゃが」

  フレデリックは瞬時に反応した。

「その名前を覚えておきましょう。彼らの研究は重要になるかもしれない」

「他にも、若いドイツ人の職人ハンス・リッペルハイも優れたレンズを作ると評判じゃ」

 そうアドリアンは続けた。

 オレたちだけではない、他の場所でも同様の実験が始まっているのかもしれない。

 いい兆しだ。




 次の数週間、フレデリックたちは測定技術の開発に集中した。

 まず、子午儀の精密目盛りが完成し、その後星の観測と振り子実験が並行して進められたのである。

 2月上旬には夜空が晴れた日が続き、ウィルの指揮のもと、北極星の高度測定を繰り返し実施できた。

 10日間にわたる観測でアムステルダムの正確な緯度を決定し、同時に複数の振り子の長さを変えながら周期を測定する実験も実施したのである。

「往復でちょうど2秒を要する振り子の長さが特定できました」

 フレデリックは小さな工房で宣言した。

 彼の隣では、ヘンドリックが真ちゅうの棒を丁寧に仕上げている。

「これが僕たちの『メートル』の原型となります。これを基準に、副尺を備えた測定器も製作できます」

 ヘンドリックはそう言って、指先で製作途中の精密な測定器具をなでた。

「あと2週間ほどで完成するでしょう」

 一方で、アドリアンとのレンズ研磨実験も継続していた。

 拡大観察装置は少しずつ性能が向上している。『遠望装置』はまだ課題が多かったが、フレデリックの情熱は衰えなかったのだ。

 2月中旬、ようやくメートル原器の第一号試作品が完成した。

 真ちゅう製の棒は輝きを放ち、両端に精密な目盛りが刻まれている。この成果は、早速二人によって『コンパス・オブ・ディスティニー』の秘密基地に持ち帰られた。




 数時間前――。

 工房を出ようとしたその時、ヘンドリックが慌てた様子で駆け込んできた。

「殿下、気をつけてください。さっき、ギルドの監視人が近くを歩いているのを見かけました」

 フレデリックは足を止め、護衛の一人が素早く外の様子を確認する。

「最近、若手職人の行動を監視する目が増えています」

 ヘンドリックは声を潜めて続けた。

「昨日も、マーティンが夜間の不審な動きを問いただされたそうです。何とか言い逃れましたが……」

 アドリアンは眉をひそめ、手元のレンズを布で丁寧に包みながら吐き捨てるように言う。

「もしヤン・ファン・ライスウェイクの耳に入ったら……。あの男は保守的だ。若手が新しい技術に手を出すのを快く思わない」

「でも、このまま技術革新を止めるわけにはいきません」

 フレデリックの声は小さいが、芯が通っている。

「護衛を増やしましょう。それと、集まる時間や場所をもっと不規則に」

「昨晩、ギルドの古参が私の工房の前をうろついていました」

 ヨハンの提案に続いて、ディルクが作業台から顔を上げ、深刻な表情で言った。部屋の空気が一層重たくなる。ろうそくの炎が揺れ、壁に不安げな影を落とした。

「もし見つかれば、私たちは追放されるでしょうね」

 マーティンがため息をつく。それでも、彼の手は精密な歯車を刻み続けていた。

「なに、わしは老い先短いが、お前たちだって、若いっていってもそれを覚悟でここにいるんだろう? なーに、殺されやしねえよ。なんせ、殿下がいるんだからな」

 わはははは! と高らかに笑うアドリアンを見て、『そうだな』『違いない』と笑いが起こった。

「みんな、ありがとうございます」

 フレデリックは感謝しつつ、ウィルと二人で工房を後にした。

 しかし、この秘密の協力は次第に噂となっていく。

 アムステルダムのギルド長ヤン・ファン・ライスウェイクの耳にも入っていくのであった。




 次回予告 第24話 (仮)『五人の技術者、それぞれの戦場で』

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