1591年1月7日(天正十八年十二月十二日) オランダ ライデン
フレデリックとウィルは、早速翌日からメートル原器を作るための第一段階である、秒の測定の準備に取りかかった。
まず、昼間に垂直な棒(グノーモン)を立て、その影の長さを観測する。
影が最も短くなる瞬間(太陽の南中時)に影の方向が正確な北方向を示すので、この南北線に沿って夜間観測用の視準線を設置するのだ。
設置したのは『コンパス』の小屋から見える丘の上である。
南北線を決めるため、彼らは日の出から日没まで棒の影を追跡し、最も短くなった瞬間を記録。その方向に沿って、木材と真ちゅうの端材で簡易な視準器を組み立てた。
「これで基本的な子午線は確立できたかな」
フレデリックは満足げに言った。
ウィルは懐から小さな磁針を取り出し、方位を確認する。
「かなり正確だ。でも……」
頭を振ってため息と共に続ける。
「これじゃあ恒星の通過を観測できても、角度の精密な測定は無理だ。この程度の子午儀じゃ、せいぜい30分角の精度しか出ない」
「精密な目盛りが必要だな」
「オレたちが必要としているのは、少なくとも1分角の目盛り精度だ」
ウィルが指で円を描きながら説明すると、フレデリックもうなずく。
「物理的に刻む目盛りは1分角が限界だろうが、ノニウス(ノギス)目盛りを応用すれば読み取り精度は10秒角くらいまで高められるんじゃないか」
「おお! さすがだな。転生者同同士で基本知識に差はないが、やはり専門分野は違う。天文学と測量が専門のオレでも、工学的な実装については限界がある」
ウィルが感心した。
「問題は、この時代の職人技術でどこまで精密な目盛りが可能かということだ。現代なら機械加工で容易だが……」
フレデリックは少し考え込んだ。
「そこで時計職人の技術が必要になる」
ウィルが言った。
「彼らは微細な歯車を手作業で作る技術を持っている。その技術を応用すれば、十分な精度の円弧目盛りが刻めるはずだ」
「そうだな。オレは理論は知っているが、実際の製作には熟練職人の技が必要だ。特に真鍮のような柔らかい金属に均等な目盛りを手作業で刻むのは並大抵の技術ではない」
「だからこそ、聖エロイ組合の協力が不可欠なんだ」
ウィルが強調した。
フレデリックも自分たちが作った木製の観測器を見つめ、つぶやく。
「……どう考えても、時計職人の技術が必要だな。オレたちだけじゃ無理だ」
「ひとまず、ライデンの時計職人ギルドに行ってみよう。聖エロイ組合の支部だ。小さいけど、大学のために科学機器も手がけている。まずは彼らに相談してみないか」
「でも、オレたちは子供だ。オレが6歳で、お前が……」
「9歳だ」
フレデリックが現実的な問題を指摘して続ける。
「誰も真剣に取り合ってくれないだろう」
ウィルはほほ笑んだ。
「お前は、何だ?」
「は?」
フレデリックはウィルの発言の意図が分からない。
「お前は何だって聞いているんだ」
「いや、意味が分からん」
「だーかーらー! お前の立場を使うしかないだろう! ネーデルラント総督の、オラニエ公の弟って地位は、めちゃくちゃなアドバンテージだろうが!」
「あ」
ライデン市内の小さな工房区画。その石畳の通りには様々な職人の看板が掛かっている。
フレデリックとウィルが訪ねたのは、『ファン・デル・メール時計工房』。
小さな店だった。
看板には聖エロイの姿と時計、そして精密機器の図が描かれている。
二人に付き添ったのは、フレデリックの家庭教師ヨハン・バンケルトだ。
彼が二人の子供を連れて訪問する名目は、『若き殿下の科学教育』である。
扉を開けると、年配の職人のピーテル・ファン・デル・メールが作業を中断して顔を上げた。
「おや、子供たちか。何か御用かな?」
彼の目が家庭教師に移る。
「大学の方でしょうか?」
「オラニエ公マウリッツ様の弟君、フレデリック・ヘンドリック殿下の家庭教師を務めておりますヨハン・バンケルトと申します」
ヨハンは丁寧にあいさつした。
「殿下の科学教育の一環として、精密機器に関してご教示いただければと」
ピーテルの態度が一変した。
「オラニエ家の……!」
彼は慌てて立ち上がり、仕事着のまま深々と頭を下げた。
「これは光栄です。何でも喜んでご説明いたします」
しかし、フレデリックが子午儀の図面を広げて説明を始めると、ピーテルの表情が驚きに変わった。明らかに子供の知識とは思えない専門的な説明に、彼は当惑の表情を隠せないでいる。
「殿下、これは……かなり高度な設計ですね。どこでこんな知識を?」
「天文学と測量術に特別な関心があるのです」
フレデリックは落ち着いて答えた。
「友人のウィレブロルドは数学の才能があり、私たちは一緒に研究しています」
ピーテルは二人と図面を見比べ、しばらく言葉を失った後、ようやく口を開いた。
「確かに作れますよ。しかし……」
彼は額にシワを寄せた。
「これほど精密な目盛りとなると、私一人では難しい。アムステルダムの本部にも相談する必要があるでしょう」
「私たちの計画を全てお話ししてもいいでしょうか?」
フレデリックが真剣な表情で尋ねた。
「計画?」
「これは単なる科学教育の一環ではないのです」
家庭教師のヨハンは不安そうな表情を浮かべたが、制止しなかった。彼自身、この異常に賢い子供たちの本当の能力を理解し始めていたからだ。
三時間後、ピーテルは子供たちの知識と構想の壮大さに完全に圧倒されていた。
「こんな子供は見たことがない……」
彼はヨハンに小声で言った。
「これは神の御業としか思えません」
翌週、ライデンの聖エロイ組合の小さな集会場に七人のマスター職人が集まった。フレデリックとウィルが計画を説明すると、予想どおり激しい議論が起きる。
「これは徒弟制度の基盤を揺るがすものだ!」
ある年長のマスターが叫ぶ。
「いや、新しい技術への扉を開くチャンスだ」
若いマスターは負けじと反論する。
結局、ピーテルが妥協案を提案した。
「基本的な部品なら提供できます。しかし、これほど精密な目盛りは、アムステルダムの本部に相談する必要がありますね。私から紹介状を書きましょう」
アムステルダムの聖エロイ組合館は、ライデンの小さな集会所とは比べものにならない豪華さだった。
三階建ての立派な建物の正面には、聖エロイの金色の彫像が掲げられている。
三人とフレデリックの護衛は、ピーテルの紹介状を手に、緊張した面持ちで大きな木製のドアをくぐった。
内部は磨き上げられた木材と真ちゅうの装飾で彩られ、壁には歴代のギルド長の肖像画が並んでいる。
「これはこれは、オラニエ家の方がなぜこのような……今回は何ですかな」
ギルド長のヤン・ファン・ライスウェイクは、フレデリックの地位を知りつつも、疑わしげな目で計画書を見る。
以前の鋳鉄ストーブの件で面識があったが、ギルド長は覚えていたのだ。
60代の堂々とした体格の男で、豪華な衣装に身を包んでいる。
説明が進むにつれ、周囲のマスターたちの間でざわめきが広がった。
特に、伝統的な徒弟制度を経ずに技術を標準化する考えに、多くの反発の声が上がったのだ。
ヤンはつえを床にたたきつけ、沈黙を促す。
「我々の技は10年の徒弟修行と5年の職人経験を経てようやく会得できるのです。図面だけで誰でも作れる『技術』など、あってはならない!」
老練なマスター職人ピーテル・デ・フリースも立ち上がった。
「こうした『革新』が広まれば、我々の技術の価値が下がり、安価な模造品で市場があふれる。家族を養えなくなる」
部屋に重い沈黙が落ちた。
護衛たちはフレデリックを守るべく一歩前に出ようとしたが、彼は小さな手で制した。
「マスター・ライスウェイク、マスター・デ・フリース、ご懸念は十分に理解します」
フレデリックは落ち着いた声で言った。
「しかし、一つ質問させてください。聖エロイ組合が最初に設立された目的は何だったのでしょうか?」
ヤンは少し戸惑いながらも答える。
「我々の技術を守り、発展させるためです」
「その通りです」
フレデリックはうなずいた。
「技術を『守る』ことと『発展させる』こと、その両方が目的だったはずです。しかし今、発展の機会が目の前にあるのに、守ることだけを選ぼうとしているのではないでしょうか?」
「若いながらも鋭い指摘だ……」
「まるで、老獪な議員の論法だ……」
室内がフレデリックの言葉にざわついている。
ピーテル・デ・フリースが口を開いた。
「賢明な言葉だが、技術の『発展』とは長い年月をかけて少しずつ磨き上げるべきです。一度に大きく変えれば混乱を招く」
今度はウィルが一歩前に出た。
「マスター・デ・フリースに質問があります。組合の歴史で、外部からの知識や技術が取り入れられた例はありませんか?」
ピーテルは少し考えてから答える。
「もちろんある。イタリアからの時計技術、錬金術からの金属処理法……」
「では、そのたびに組合は崩壊したでしょうか?」
ウィルの口調は丁寧だが、論理は鋭かった。
「いいえ、むしろ新たな技術によって組合の技は豊かになり、より高度な製品を製造可能になったはずです」
「しかし! それらは常に組合の管理下で、秩序立てて導入されました。……失礼ながら殿下。殿下のご提案は、誰でも簡単に我々の技をまねできるようにするのですぞ」
語気を強めたヤンに対して、フレデリックは小さくほほ笑んだ。
「ギルド長、私たちが提案しているのは、組合の技術を奪うのではなく、新たな技術の基盤を共に作ることです。この精密測定の技術があれば、組合はより高精度の時計や、これまで作れなかった複雑な装置が製作可能になる」
「そして……」
ウィルが続けた。
「標準化された部品と測定法はむしろ技術の向上を促し、単純作業から解放された職人たちは、より創造的な仕事に集中できるのです」
マスター職人たちの表情に変化が現れ始める。特に若い職人たちは興味津々で、その目は輝いていた。
しかし、ヤンはつえを強く床に突いて反論する。
「理屈は分かります。しかし、現実はそう単純ではない。我々には守るべき伝統と生活があるのです」
彼は周囲のマスター職人たちを見回した。
「各自の意見は?」
年配のマスターたちが次々と反対を表明し、若いマスターたちはほとんど発言できない。
議論が終わりに近づくと、フレデリックは最後の言葉を求めた。
「マスター・ライスウェイク、今日の決定は尊重します。しかし、技術の進歩は止められないと覚えておいてください。この精密測定の技術は、いずれどこかで生まれます。その時に先駆者となるか、追随者となるか……それが貴組合の選択なのです」
ギルド長は深いシワを刻んだ額に手を当て、しばらく考え込んだ。
最後に彼は、疲れた声で言う。
「賢明な言葉ですね、若き殿下。しかし、我々には我々の道がある。オラニエ家への敬意から聞き入れましたが、我々はこの計画に公式には協力できない。これがギルドの総意です」
フレデリックとウィルは礼儀正しく頭を下げたが、その目は諦めてはいない。
この程度で諦めてたまるか。
そんな気合いに満ちていたのだ。
帰り際、ヘンドリック・フローネンが廊下でフレデリックとウィルに近づいてきた。
「あなた方の考えに興味があります。公式には協力できませんが……」
彼は声を潜めた。
「工房は川沿いの赤い屋根の建物です。夜に来てください」
夜のアムステルダム、運河沿いの赤い屋根の工房。フレデリックとウィルは慎重に周囲を確認してから、裏口をノックした。
ヘンドリックが扉を開け、二人を招き入れる。工房内には、他にも数人の若い職人たちがいた。
「彼らも私と同じ考えです」
ヘンドリックは仲間を紹介した。
「ヤコブは分度器の名手、ディルクは金属加工の達人、そしてマーティンは天文時計を専門にしています」
「ギルドに見つかったら、追放されるかもしれないのに……」
フレデリックは言ったが、ヘンドリックは肩をすくめている。
「オレたちには自分の技術を磨く自由がある。ギルドの規則は新しい知識を求めることを禁じてはいない。それに、ギルド長は『公式に』参加できない、とは言ったけど、禁止はしなかったからね」
こうして、フレデリックとウィルは公式のギルドの拒絶にもかかわらず、進歩的な若手職人たちとの秘密の協力関係を築き上げた。
昼間はライデンで準備を進め、夜はアムステルダムの工房で精密部品を製作する二重生活が始まったのである。
次回予告 第23話 (仮)『密かなる協力者たち』

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