王国暦1047年11月13日(火)06:23:36=2025年9月7日 12:00:00 レガシィ車内
スーパー銭湯の駐車場を出て、オレは愛車のレガシィを病院へと走らせた。
心の中はこれから始まる交渉への重圧で重い。
助手席のエリカは楽しんでいるようにすら見える。
「本当に大丈夫なのか、エリカ。相手は院長だぞ」
「院長だからって何よ。それに、あいつは私の元カレなんだから」
「はぁ? 元カレ?」
思わず素っ頓狂な声が出た。初耳だ。
「あいつは昔から単純なのよ。でも医療にかける情熱は本物。話せばきっと分かってくれると思う」
「それにしても、明菜の名前を出したのは正解だったよね。あいつ、女にだらしないところあるし」
あまりの楽観ぶりにオレは逆に胃が痛くなってきた。
その時……エリカの手がオレの太ももにそっと触れた。明らかにそれっぽい触り方だ。
え? 何? どした、これ?
いやいやいや!
ありえんありえん!
それはない。こんなおっさんに。
「健太、あなただけに背負わせない。私に任せて」
エリカはまっすぐ前を見据えたまま、力強い声で言った。言葉とは裏腹に、太ももの上の手はどかさない。
「……ああ、頼む」
それだけ言うのが精一杯だった。
彼女の好意は嬉しいが、今は受け止める余裕がない。それにオレは既婚者だ!
■王国暦1047年11月13日(火)07:23:36=2025年9月7日 13:00 総合病院 院長室
重厚な院長室のドアの前で、オレとエリカは受付の秘書に取り次いでもらっていた。
「院長、大学時代の同期でいらっしゃいます、橋爪明菜様がお見えですが」
受話器からこもった声が聞こえたが、明らかに嬉しそうだ。エリカと顔を見合わせる。彼女の言ったとおりだ。
「どうぞ、お入りください」
部屋は広々としていて、窓から街を一望できた。
デスクの向こうから立ち上がった白衣の男が、満面の笑みでこっちへ歩いてくる。
「やあ、明菜! 久しぶりじゃないか! 急にどうし……た……」
山城の言葉と笑顔が、途中で凍り付いた。
彼の視線は、オレの隣に立つエリカに釘付けになっている。
「……エリカ……? 薬師寺、エリカなのか……? 嘘だろ……君は昏睡状態のはずだ……今朝も診てきたんだ……おい、何のドッキリだよ!」
彼は幽霊でも見たかのように後ずさった。
「久しぶり、山城君。ごめんなさい、昏睡中の私は電話できないでしょ。だから明菜の名前を借りるしかなかったの」
エリカが小悪魔みたいに微笑む。
「まだ私だって信じられない?」
「当たり前だ! 何のイタズラだ、警察を呼ぶぞ!」
明らかに動揺している。
そりゃそうだ。しないほうがおかしい。
「ねえ山城君、あのときのこと、覚えてる?」
「あのときって、何だよ!」
「卒業旅行で箱根に行ったときよ。貸し切り露天風呂であなたがのぼせて倒れたとき、私が介抱したでしょ」
「なっ……!」
山城の顔が赤くなる。
「うなされながら言ってたよね。『オレのメスは世界一だ』って。恥ずかしい寝言」
「や、やめろ! 誰かから聞いたんだろう! あ、明菜だな!」
「じゃあ、これはどう? あなたの左の肩甲骨にある、ハートの形に見えるアザのこと。私が『エンジェルマーク』だってからかったら、本気で喜んでた」
「……っ!」
山城は絶句した。額からだらだらと汗が流れ落ちる。
「分かった……分かったよ。君は……本物のエリカなんだな。でも信じられない。一体どうなっているんだ……」
観念したように、山城はソファに崩れ落ちた。
「今から話すけど、お願いがあるの」
エリカは本題を切り出した。
「山城君、あなたにしか頼めない。外科手術に必要な医療器具一式と薬品を調達してほしいの」
「……何だって?」
「費用はこの人が全額支払う」
エリカはオレを指した。
オレは3000万円の残高が記載された預金通帳のコピーをテーブルに置く。
「金の問題じゃない! 業務上横領、犯罪だぞ!」
「横領じゃないよ。山城君、確か分院があったよね。調布グリーンタワー7階で、その名も山城外科クリニック。あそこに持って行ったって形ならいいでしょ?」
え? まじか? 確かに隣はクリニックだったけど。
「なぜ……君がそれを……」
エリカの口からサラッと出てきた言葉に山城は息をのんだ。
「お願い。必要なの。それにいずれ本当になるんだから、ちょっとぐらい構わないでしょ?」
え、何が? どういうことだ?
「いずれ本当になるって? 訳の分からないこと言わないでくれよ!」
山城がブチ切れて立ち上がる。
オレも意味が分からない。
「エリカ、ちょっと待って、ちょっとこっちに来て」
オレはエリカを院長室の脇に連れて行って聞いた。
「おい、これはどういうことだよ? その『本当になる』ってどういう意味?」
実はオレ、田代に頼んだ就籍の手続きが月末までに終わらなかった場合を考えていたんだ。
たまたま退去の通知と一緒に入っていた書類を見たら、早期退職の話が書面で来ていた。
今まで何度勧められても断ってきたけど、これなら退職金をもらって、貯金と合わせて会社が売却予定のこのマンションを買えばいいって思いついたのさ。
そうすればオーナーだから、レイナやアンやトムが一緒に住んでもまったく問題ない。
それを車の中でエリカに話したんだった。まさかこうなるとは……。
「健太。ごめんなさい。勝手に話を進めてしまって。でも、これは一番いい方法だと思うんだ」
確かに……。
限りなく黒に近いグレー(ほぼ黒?)の方法だけど、一番まともな解決法だ。(まともか?)
エリカは山城に向き直った。
「だから彼がマンションのオーナーになるの。そしてあなたのクリニックと彼の部屋は隣同士。その壁を抜くか、それとも第2診察室か、医療用品の備品倉庫にするか……。どっちにしても私たちの『補給基地』になるから、医療用品を運び込んでも、それは将来の自分のクリニックへの先行投資。帳簿上の問題も、いずれ解決するわ」
エリカすげー。
オレはがく然とした。
「お願い。必要なのよ。私たちの、それに……多くの人の命のために」
エリカが真剣な目で山城を見つめる。
山城はもはや何が何だか分からず、ただ混乱して立ち尽くすだけだった。
ここまでだな。オレは前に出た。
「山城院長。常識的に考えれば、我々は狂っているとしか思えないでしょう」
頭を抱えた山城はオレを見る。
「でももし、証拠をお見せできたら?」
「証拠?」
山城がすがるような目でオレを見る。
「はい。口で説明しても信じてはいただけないでしょうから、直接見ていただきたい。我々の自宅まで来ていただけますか?」
オレの言葉に彼は一瞬ためらった。
しかし目の前にいるエリカの存在と常軌を逸した要求。その意味を確かめずにはいられなかったようだ。
「……待て。午後の診察が……いや、それどころじゃない!」
山城は院長室の内線電話に飛びついた。
「秘書室か! 私だ。急用ができた。すまないが、今日の午後の診察と会議はすべてキャンセル、もしくは延期にしてくれ。緊急の患者は副院長に回す。理由は……急な身内の不幸だ。いいな!」
一方的に告げると、彼はガチャンと受話器を叩きつけた。
「よし、行こう! 田中さん、車はどこだ?」
彼は白衣を脱ぎ捨てて、オレたちをせかすように言った。
医師としての使命より、今は目の前の謎を解き明かすことが彼のすべてになっていた。
次回予告 第21話 『携帯型音響兵器 LRAD 100X~銃火器設計図と爆薬製造目的その他の化学薬品~』
昏睡中のはずの元恋人の出現と常軌を逸した要求。
追いつめられた山城は、健太の言う『証拠』を確かめるべく、ついに社宅へ向かう決意を固めた。
その裏で、マルクスたち一行は反撃の準備を始めるため渋谷の街へ降り立つ。
2つの作戦が、今、同時進行で動き出す――。

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