第8話 『風邪こじらせの胸患い-亜麻色美女のツンツン診療-』

 王国暦1047年9月21日(日)23:00=2025年9月6日(土)20:30:04 <田中健太・52歳>

「やはり風邪こじらせの胸患いか」

 聴診器なのどうかもわからない筒状の器具をアンの胸に当てて、ブツブツ独り言を言ったかと思うと、唐突に言った。

「え! ? それじゃあ……」

 側でレイナが両手で顔を覆っている。

「だから、風邪をこじらせて、胸を患っているんだよ。急性の肺炎だな」

 男みたいな口調で亜麻色女はそう言ったが……。

 だからって、何だ……。

 ……まさか!

「おい、まさかペストじゃないだろうな?」

 ペストは当時黒死病とも呼ばれた死の病だ。

 ヨーロッパで何度も発生して人口を激減させたって歴史の授業で聞いた。

「違う」

(ペストだって? 黒死病ならわかるが、ペスト?)

 女が首を振った。

「この子の症状を見る限り、肺黒死病の可能性は低い。血痰も出ていないし、進行も緩やか過ぎる。それに、この街でネズミの大量死も報告されていない。普通の胸患いだろう。腺黒死病の可能性も考えたが、見ろ。太ももの付け根も腫れていない」

 女はそう言うと、アンの着衣を少しだけめくった。

 その言葉と仕草に、張り詰めていた緊張が少しだけ和らぐ。

 黒死病じゃない。その事実だけで全身から力が抜けていった。

「助かるのか」

 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。

「助ける。そのために来たんだから」

 女は静かに言い切った。彼女は立ち上がると、同行していた銀髪の女に指示を出す。

「ルナ、準備を」

「はーい」

 ルナと呼ばれた銀髪の女は、背負っていた革のカバンを床に置くと、手際よく開いた。

 医者の女より若くは見えるが、それでも20代前半……いや、10代後半か?

 カバンの中には薬草の束は入っていない。大きさの違うガラスの小瓶が、仕切りの中に整然と並んでいた。

「まず白柳の粉末と月光草のチンキを。マルクス、お湯を」

「ああ、すぐに持ってくる……ケントの旦那……ええと、何て呼べばいいですか? お湯はあります?」

 オレははっと我に返った。

「ケントさんでいい。……ああ、台所だ。すぐに沸かせる。レイナ、頼めるかい」

 レイナは黙ってうなずいている。

 マルクスとレイナがお湯の準備をしている間に、寝室では医者の女がルナから2つの小瓶を受け取っていた。

 1つは白い粉末、もう1つはわずかに光る液体が入っている。

 やがてマルクスが湯気の立つカップを持ってきた。

 女はカップを受け取ると、慣れた手つきで粉末を溶かしてチンキを数滴垂らす。あっという間に即席の薬が出来上がる。その無駄のない動きは、娘が小さい頃に連れて行った診療所を思い出させた。

「アン、少し苦しいけど頑張って。これを飲むのよ」

 女はアンの上体を優しく抱き起して、スプーンで少しずつ薬を口元へ運んだ。

 意識が朦朧としているアンは、初めはうまく飲み込めなかった。

 それでも女は根気強く、何度も薬を飲ませ続ける。

「これで少し楽になるはず。熱を下げて、呼吸を安定させるのが先決よ」

 女は言った。

 薬を飲ませ終えると、今度は濡らした布でアンの体を拭き始める。首筋、脇の下、足の付け根。体温を下げるのに効果的な場所を的確に冷やしていく。オレはただ見ているしかできない。

 どのくらい時間がたっただろうか。

 時計がないから正確な時間がわからない。

 夜間だから時計台の鐘もならない。

 アンの呼吸がわずかに穏やかになった。ぜぇぜぇという苦しげな音の間隔が、少しだけ長くなる。

「よし」

 女はアンの状態を再度確認すると、満足げにうなずいた。彼女はルナに向き直る。

「本命を使うわ。竜の鱗ゴケを」

 ルナがカバンの奥から、ひときわ小さな厳重に栓がされた小瓶を取り出した。

 中には青緑色の液体が少量入っている。

 なんだこれは……。

 女はその貴重な薬を、一滴も無駄にしないように慎重にアンの口へ……。

「ちょ、ちょと待ってくれ。あんたのことを信用して任せたけど、インフォームド……いや、ちゃんと、さっきの薬と今使おうとしてる薬の効能や原料を教えてほしい」

 オレの言葉に、女は薬を投与する手をぴたりと止めた。

 彼女は少し面倒くさそうに、それでいて意外そうな表情でオレを見る。

(インフォームド……コンセント?)

「今さら何? 一刻を争うんだけど」

「娘の体に入れる薬だ。知るのは当然だろう」

 つい強い口調になる。

 レイナが心配そうにオレの腕をつかんだけど、これだけは譲れない。

 女は小さくため息をつくと、小瓶を持ったまま説明を始めた。

「最初に飲ませたのは2種類。白柳の樹皮で熱を下げ、月光草で痰を切りやすくして呼吸を楽にする薬よ。これで治るわけじゃない。高熱で体力を奪われて死ぬのを防ぎ、この子に戦う時間を与えるための応急処置」

 淡々とした口調だった。

「そして、今から使うこれが本命。あんたの娘を苦しめている原因そのものを殺す薬」

「原因を殺す?」

「竜の鱗ゴケから作った。この世界の連中は、気味悪がって触りもしない毒苔よ」

 毒。

 その言葉にレイナが息をのむ。

 オレも一瞬、言葉を失った。

 毒を薬に使うのか。常識じゃ考えられない。

 でもこの女の自信に満ちた態度と、これまでの手際の良さを見れば、ただの毒でないことは確かだ。これが、彼女が『魔女』と呼ばれる理由なのかもしれない。

「分かった。頼む」

 オレが言うと、女は今度こそ、貴重な薬を一滴も無駄にしないように慎重にアンの口へ含ませた。

「応急処置で稼いだ時間のうちに、この薬が菌を殺しきれるかどうか。夜が明けるまでが勝負よ」

 女は静かに告げた。

 オレとレイナはただうなずくしかできない。

 祈る気持ちで、ベッドの上の小さな寝顔を見守った。

 朝――。

 窓の隙間から差し込む光が、部屋の闇をゆっくりと押しやっている。

 長い、長い夜だった。

「あなた……アンの呼吸が……」

 最初に変化に気づいたのは、ずっとアンの手を握っていたレイナだった。

 その言葉にオレはアンの胸の動きに集中する。

 確かに、浅くて速い苦しそうな呼吸じゃない。

 少しずつ、深く、穏やかなリズムに変わってきている。オレは恐る恐るアンの額に手をやった。

 少しだけ温かいけど、昨日みたいな焼けるような熱さじゃない。

 女は慣れた手つきでアンの状態を確認する。

 アンの脈を取って胸の音を聞くと、静かにうなずいた。

「峠は越したわね。あとはゆっくり休ませれば大丈夫」

 その言葉に、張り詰めていた糸が切れた。レイナがその場に泣き崩れる。オレも、こみ上げてくる熱いものを抑えることができなかった。

「ありがとう……本当に、ありがとう……!」

 オレは女と、その仲間たちに向かって心の底から頭を下げた。

 安堵が全身を包む。

 そして、冷静さを取り戻した頭に、拭い去れない疑問が浮かび上がってきた。酒場で聞いた言葉。この世界の常識を覆す治療法。目の前の人は、一体何者なんだ……。

 オレが顔を上げると、マルクスが腕を組み、探るような目でこちらを見ていた。

「さて、ちょっとこっちへ。話の続きをしようじゃないか」

「すまん、治療費の件なんだが……」

「いや、それは後でいい。……あんた、いったい何者だ?」

 女は言った。

 ? ? オレが聞きたい。

 次回予告 第9話 (仮)『正体』

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