異世界歴〇〇年〇〇月〇〇日=2025年9月6日(土)17:57:05 <田中健太・52歳>
腕の中に小さなぬくもりがある。
もう何年も経験していない感覚……そりゃそうだ。大学生だから10年以上前なんだもんな。
それが、リアルにオレの作業着の胸元を、小さな手が必死に掴んでいる。
うえーん……ヒックヒック……ぐすんぐすん……。
しゃくりあげる嗚咽(おえつ)が、布越しに振動となって伝わってきた。
お父さん……。
アン……。
どんなに状況が意味不明でも、そう言われた事実は変わらない。
頭が、まだ状況の整理を拒否しているんだが……科学者として(いや、じゃなくても)導き出せる答えはひとつ。
この少女――アンと名乗ったこの子は、どうやら本気でオレを自分の父親だと思い込んでいるらしい。
オレがあの人相書きの『ケント・ターナー』に瓜二つなら、半月も行方不明だったあの似顔絵の男がこの娘の父親だ。
まじか……。
どうする? オレは間違いなく別人だが、正直に人違いだって言うか?
いや、それはダメだ。
この娘が可哀相すぎるし、第一そう言って何か状況が好転するか? しないだろう。
本当の父親がどこで何をしているのかは分からない。
……今はこの子の父親のフリをするしかないか。
それに情報収集をしなくちゃならないし、この娘も家に帰るだろう。どこに家があるのかわからんけど、現時点で一番リスクの少ない、合理的な判断のはずだ。
「……ああ。すまなかったな、アン。ちょっと頭を打ったみたいでな。色々なことが、よく思い出せないんだ」
ベタな言い訳。
もうどんだけのラノベ作品で読んだか……いや、ラノベじゃなくても頭打ってうんぬんは、理由の筆頭だ。
でもアンは純粋な瞳でオレを見上げ、こくこくとうなずいている。
「でも良かった~お父さんがいて。大変だったんだね……でも、もう大丈夫だよ。お家に帰れば、お母さんがいるから! お母さんに会えば、きっと色々思い出すよ!」
お母さん……母親か。
「アン……アンは今いくつだい?」
「……10歳! お父さんがいなくなる前にお誕生日会やってくれたじゃない。それも忘れたの?」
ちょっと悲しそうな顔をしたが、すぐに元通りになった。
10歳か……予想通りだ。じゃあ母親は20代後半から30代か。
「ああ、ごめんごめん。そうだったね。帰ろうアン。お前の家に」
「うん!」
アンは元気よく返事をすると、オレの手をぐいと引いた。
その小さな手に引かれるまま、オレは森の中を進んでいく。夕暮れの木漏れ日が、地面にまだら模様を描いていた。
「お母さんの名前、忘れてないよね?」
「……ごめん。名前も……ちょっと思い出せない」
「もう! レイナだよ、レイナお母さん! 自慢の美人のお母さんなんだから」
アンは少し頬を膨らませた。
レイナか。
玲奈? 麗奈? REINA?
日本人でも欧米人でも、どっでもいそうな名前だ。
だけどこの世界の人間は、日本語を話して日本人のような名前を持つのか?
疑問は尽きない。
ケント・ターナーはカタカナで書かれて英語のスペルもあった。
でも漢字で田中健太って書いてあったってことは、いったい何が本名なんだ?
アンは杏か?
道中、アンは色々なことを話してくれた。
ケント・ターナーはこの娘の優しい父親だったらしい。腕のいい職人で、工房の親方からの信頼も厚かった。ギルドに追われる心当たりは、アンには全くないという。
半月前にいつものように工房へ仕事に出かけたきり、帰ってこなかった。
「お家は一番古い職人街の外れにあるんだ。お父さんの工房からも近いよ」
その言葉にオレはホッとした。
ゲートのある工房のトイレと、この娘の家が近いなら今後の行動計画が立てやすい。
やがて、森を抜けると、巨大な石造りの城壁が見えてきた。
王都だ。
ん?
どうした?
そっちはまったく見当違いの方向だぞ。
アンは城門へは向かわずに、人気のない方へとオレを導いていく。
おいおいおい……。
日が完全に落ちて、あたりは急速に暗くなった。
幸い月夜なのでなんとか見える。
「アン、こっちで合っているのか?」
「うん、大丈夫。もうすぐだから」
足を止めたのは苔むした古い城壁の、ちょうど大きな木の根が覆いかぶさっている場所だった。
アンは、慣れた様子で木の根の下に生えたシダの葉をかき分ける。
すると……大人が這えば何とか通れそうなくらいの黒い穴が口を開けていた。
「ここだよー。秘密の抜け道」
どうやら城壁の下水路か、あるいは昔の何かの名残らしい。
子供のアンには十分な大きさなんだろうけど、52歳のオレにはちょっと厳しいサイズだ。
「ここから入るのか?」
「うん。お父さんを探しに行く時もここから出たんだよ。門番の人に見つかると、怒られちゃうから」
そういう問題か……? とは思ったが、口には出さない。
「ここから入るのか? 中は暗くて危ないだろう」
オレが言うと、アンは少し得意げに胸を張った。
「大丈夫! 私これ持ってるから!」
小さなバッグから取り出したのは、ロウが半分ほど溶けた、小型の燭台だった。
……火か。なるほど、この世界の光源は、基本的には火なんだな。
15世紀中世ヨーロッパ、まさになろうの異世界。
でも火事のリスクや酸素の消費を考えると、短時間でも狭い穴の中で使うのは得策じゃない。
「いや、アン。それはしまっておけ。もっといいものがある」
オレはドンキで買ったヘッドライトを取り出して頭に装着した。
カチッ。
次の瞬間、LEDの強烈な光が穴の奥まで照らし出した。
「――わあっ! ?」
アンが素っ頓狂な声を上げて目を丸くしている。
恐る恐る、オレの額で輝く光源を指差した。
「お父さん、なにこれ! ? 魔法……? 太陽のかけら……?」
魔法……
今、確かにそう言ったか?
オレは昨夜工房で聞こえてきた会話を思い出す。
『結局、魔法省の連中には敵わんさ』
やっぱりこの世界には魔法が存在するらしい。
しかも『省』っていうくらいだから間違いなく国家機関として存在している。
それだけ当たり前に存在のようだ。
でも、その仕組みも正体も、今のオレには全く分からない。下手に知ったかぶりをするのは危険だ。
太陽のかけら……か。
子供らしい、詩的な表現だな。
「……昔、ある賢者様からもらった特別な明かりだよ。火を使わないから安全なんだ」
オレはアンの問いには直接答えずに、少しだけはぐらかすように言った。
アンはキョトンとしながらも、納得したようにうなずいた。
「けんじゃさまの……! そっか、だからそんなに明るいんだね!」
「ああ。こんだけ明るいからもう大丈夫だろう。先に行け」
「うん!」
アンは興奮で頬を赤らめながら、光に照らされた穴の中へ嬉々として潜り込んでいった。
魔法省……魔法……。
そして、この世界の人間は、オレの持つ科学技術を『魔法』だと認識するらしい。
いや、厳密には魔道具か?
はたしてそれは、危険なんだろうか?
いや、使い方によっては、オレの正体を隠すための、最高のカモフラージュになるかもしれない。
「着いた~! お父さん、あれがお家だよ!」
ヘッドライトの光が照らす先、アンの小さな指が示す方向に、一軒の家があった。
周囲の建物と同じでこぢんまりとした石造りの二階建ての家だ。
窓からは温かいオレンジ色の光が漏れている。職人街の外れという言葉通り、あたりは静まり返っていた。
さて、どうする?
どうすれば怪しまれずに溶け込んでケント・ターナーを演じられるか?
「お母さんただいま! お父さんが帰ってきたよ!」
その声を聞いて家の奥から、パタパタと軽い足音が近づいてくる。
そして、光の中に一人の女性が姿を現した。
うわっ!
がっつり美人じゃねえか。
20代前半~半ばか?
オレは息をのんだ。
亜麻色の長い髪を後ろで1つに束ねて、大きな榛色の瞳を見開いてオレを凝視している。
若く美しい女性が、信じられないものを見るかのように立ち尽くしていたのだ。
「あなた……本当に……ケント、なの……?」
か細くて震える声だった。
彼女の瞳から大粒の涙がいくつもこぼれ落ちる。
アンがその母親のスカートの裾を掴んで、ぶんぶんと振った。
「そうだよお母さん! お父さんだよ! 森で会ったの!」
レイナと呼ばれた女性はゆっくりとオレに歩み寄る。ためらうように伸ばされた手がオレの頬に触れた。
その手は、ひどく冷たい。
「ああ……夢じゃない……。本当に、帰ってきてくれたのね……!」
次の瞬間、彼女はオレの胸に顔をうずめて声を上げて泣き始めた。
あ、いかんいかん……。
胸が、胸が当たっている……。
いやいやいいやいや!
不謹慎だぞ、オレ!
オレは戸惑いながらも、その華奢な体を支えるように抱きとめるしかなかった。
ウソの娘の次はウソの妻だ。
ウソをつくのは、それが例えベータ宇宙だとしても心苦しい。
だからせめて、この母子に安心と幸せを味あわせてあげよう。
家の中は、質素だけど清潔に整えられていた。
使い込まれた木製のテーブルと椅子があって、壁際には簡素な食器棚が置かれている。
甘い香りのするシチューが暖炉の火にかけられていた。
「本当に、何も覚えていないの?」
レイナは心配そうにオレの顔をのぞき込む。
オレは曖昧にうなずいた。
「森で頭を強く打ったみたいなんだ。自分の名前も、アンのことも、お前のことも……断片的にしか思い出せない」
「そう……。でも、無事でよかった。本当に……。ああ、それからアンは杏奈ね。みんな愛称でアンって呼んでる」
アン=アンナ=杏奈? か。
レイナは心の底から安心した表情を見せた。
疑う様子は微塵もない。それだけ夫の帰りを待ちわびていたということか。
食事中にレイナはケント(オレ)が失踪した日のことを話してくれた。
オレはその日の朝、いつも通りに工房へ向かったようだ。
特に変わった様子はなかったという。
仕事道具以外は何も持たずに出勤した。
ギルドの人間が訪ねてきたのは、その3日後のことだった。ケントの行方を知らないかと、執拗に聞かれたらしい。
仕事上何日も職場で寝泊まりする事が多くて、レイナは気にもとめていなかったようだ。
「工房で何かあったんだろうか……」
オレは探りを入れるように呟いた。
「分からない……。親方にも聞いたけど、あの日、ケントは昼過ぎに少しぼんやりしていた、としか……」
有力な情報は得られない。
でも帰還ルートを確保するためには、工房へ行く必要がある。
「明日、工房へ行ってみる。何か思い出せるかもしれない」
「でも、あなた体は……」
「大丈夫だ。それに、仕事をしないと生活ができない」
オレの言葉に、レイナはそれ以上何も言わなかった。ただ、心配そうに眉をひそめている。
夜が更けていった。
アンはとっくに眠っていて、家の中は静まり返っていた。
それからオレにとって最大の難関が訪れる。
寝室の問題だ。
レイナが、ごく自然に2階へ上がるよう促してくる。そこには当然、寝台が1つしかない。
「頭がまだ痛むんだ。今夜は階下のソファで……」
オレが言い終わる前に、レイナが寂しそうに微笑んだ。
「駄目よ。やっと帰ってきたのに。半月も1人で、寒くて……眠れなかったんだから。それにだったらなおさらベッドで寝なきゃ」
そう言われちゃ、拒絶なんてできないよ。ぎこちなく寝台に横たわる。
隣にレイナがもぐり込んでくる気配を感じた。石鹸のような、清潔な香りがする。
オレは壁際に向かって体を固くした。
背中から彼女の体温が伝わってくる。緊張で全身の筋肉がこわばって、まったく眠れない。
いかん! いかんいかんいかん!
頭の中で、オレは必死に理性のブレーキを踏み続ける。
彼女は、オレの妻じゃない。
夫の帰りを半月も待ち続けた、健気な女性なんだ。
オレは、彼女の信頼を裏切るただの偽物だ。
だけど背中の温もりと、すぐ隣で聞こえる穏やかな寝息が、何年も忘れていた感情を呼び覚ます。
その時、背後でレイナが、小さく身じろぎをした。
寝言のように、か細い声で呟く。
「……ケント……」
その一言が、最後の引き金になった。
……ああ、もう、どうにでもなれっ!
次回予告 第5話 (仮)『夜が明けて』

コメント