1591年8月15日(天正19年6月26日) オラニエアカデミーの一室
広場から響く騒がしい声を完全にシャットアウトした部屋の中で、フレデリックたちは誰も口を開こうとしなかった。
重苦しい空気が流れ、時間だけがゆっくりと過ぎていく。
沈黙の原因はコルネリス・ピーテルスゾーン・ホーフトが出した条件だった。
資金は確かに欲しい。
いや、欲しいなんてレベルじゃない。
喉から手が出るほど、文字通り血眼になって求めていた資金だ。
でも、その代償として事業の主導権を手放すなんて……。
たった1時間で、オレたちの未来を決めろって?
冗談じゃない。
「まずは状況整理から始めましょうか。ホーフトさんの提案——10万ギルダーの投資資金。その対価として求められる3つの条件について」
口火を切ったのは、見た目5歳、中身60歳の転生者、シャルロットだ。
誰もが年齢差のある転生を経験しているが、彼女は特に目立つ。
重要なポジションである財務責任者を任されているのも納得の、元女性銀行頭取であった。
「さあ、整理していきますよ」
その声には、幼い外見からは想像もつかない威厳と冷静さが宿っている。
小さな手で指を1本ずつ折りながら、ベテランの経営コンサルタントさながらに状況を的確に分析していく姿は、見ている全員が不思議な感覚を覚えた。
「1つ目は新会社『オラニエ蒸気機械会社』の設立。2つ目は彼が筆頭株主として経営に関与する点。3つ目は製造される蒸気機関の独占販売権」
「最大の問題は、経営への関与と独占販売権だ」
フレデリックが腕を組んで発言した。表情は硬い。外交官としての経験が、安易な妥協の危険性を警告している。
「蒸気機関はオレたちの野望を支える最重要技術なんだ!」
拳を握りしめながら続ける。
「だからこそ、絶対に他の連中の手に渡すわけにはいかない。特に販売権なんて渡したら最後――」
目つきが鋭くなる。
「スペインの野郎どもみたいな、オレたちとは相容れない連中にまで技術が流れる可能性だってあるんだぞ? そんなリスクを冒すくらいなら、多少無理をしてでも自分たちで管理し続けるべきだ!」
「でも、フレデリック――」
割って入ったのは、蒸気機関開発チームのリーダーを務めるハインリヒだった。
普段は冷静沈着なのに焦っている。眉間にシワを寄せて、技術者としての責任を感じ、現実に苛立っていた。
「君の理想論も分からなくはないが……」
ハインリヒは一度言葉を区切り、重いため息をついた。
表情は険しい。
開発現場で日々格闘している者だけが知る、危機感そのものだった。
「金がなきゃ、計画は絵に描いた餅で終わる」
声は静かだったが、言葉には確固たる信念が込められていた。テーブルに置かれた設計図を見つめながら、彼は続ける。
「今日の公開実演で分かったはずだ。今のオレたちの技術じゃ、まともな蒸気機関は作れない」
技術的側面からの意見は続く。
「高効率な蒸気機関には、高品質な鋼鉄が不可欠なんだ。そのためには、コークス炉、高炉、反射炉がいる。全部、一から建設しなきゃならない」
ハインリヒは立ち上がって一呼吸おいて、つづけた。
「25万ギルダーの製鉄への投資額は、決して大げさな数字じゃない」
最後の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。会議室は急に静かになる。誰もが膨大な金額の重みを理解していた。
理論や理想だけでは現実は動かない。まさに、先立つものは金。地獄の沙汰も金次第なのだ。
「ハインリヒの言う通りよ」
シャルロットが冷静に口を開いた。彼女の表情は相変わらず落ち着いているが、深刻な表情を浮かべている。
「今の『暁の方舟商会』の資産と収益力じゃ、30万ギルダーの捻出は絶対に不可能。塩事業は軌道に乗ったけれど、それはあくまで初期資金程度。桁が二つも違うのよ」
指で机を軽く叩きながら続ける。
「ホーフトさんからの10万ギルダーは、本当にありがたい申し出よ。これがなければ計画そのものが頓挫していたでしょうね」
「じゃあ、条件をのむしかないと?」
シャルルが不安そうに尋ねると、シャルロットは首を左右に振った。
「いいえ、交渉しましょう」
その声には確信があった。
「彼が求めるのはこの事業での利益。私たちが欲しいのは、計画を進めるお金と技術の保護。この2つをうまく合わせるのが、今回の交渉で一番大切です」
そう言うと彼女はフレデリックの方を向いた。
「ホーフトさんが使った『aandeel(株)』、興味深い言葉ですね」
シャルロットの瞳が輝く。
彼女は言葉の意味を理解していたのだ。それは、イタリアのジェノヴァあたりで始まった海運事業への出資形態である。
出資額に応じて事業の所有権を分割し、利益を分配する考え方。株、である。
「これは使えます」
「使えるってどういう意味?」
ウィルが顔をしかめて尋ねた。
「会社を設立して、株式を発行するんです。ここまでは彼の提案どおりですね」
彼女は立ち上がり、部屋の中央に歩み寄った。
頭の中では既に戦略が組み立てられている。
経営の意思決定権と、技術の管理権は自分たちが握るのが、交渉の核心となる条件だ。
「取締役会を作って過半数を私たちで固めます。それから技術開発の最終決定権はアカデミーが持つ。その条項を会社の定款に入れてもらうんです」
シャルロットは振り返ると、メンバーたちの顔を見回した。
ホーフトには筆頭株主として大きな利益を約束する。その代わりに、経営の実務からは距離を置いてもらう。これなら双方にメリットがあるはずだ。
「独占販売権についてはどうするんだ?」
オットーが一番心配していた点を口にした。
「これも条件付きで許可しましょう」
彼女は冷静に発言した。
販売先はネーデルラント連邦共和国内と、自分たちが許可した同盟国だけに限定する。販売価格や契約条件についても、すべて自分たちの承認が必要としたのだ。
「技術流出のリスクは、これで最低限に抑えられます」
見事な交渉術だ。
相手の要求を受け入れる素振りを見せて、実際の主導権は自分たちが握る。ホーフトが条件をのむかどうかは分からない。
しかし、単純な拒否か全面受諾かの二者択一を超えた第3の選択肢が見つかり、フレデリックたちの表情に希望が蘇った。
「分かった。その方針でいこう」
フレデリックがうなずいた。
「交渉の席にはオレとシャルロット、それから法律顧問としてシャルルオジさんにも来てもらおう。ハインリヒは技術的な観点からサポートを頼む」
方針が決まった。残された時間は少ない。メンバーたちは急いで会議室を出て、待機しているコルネリス・ホーフトのもとへ向かった。
始まった交渉は、想像以上に厳しいものだった。
次回予告 第30話 (仮)『金融革命~オランダに現れた銀行と証券取引所~』

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