王国暦1047年11月13日(火)11:53:36=2025年9月7日 17:30:00 健太の社宅<田中健太>
オレの社宅に着いたとき、空はすでにあかね色に染まり始めていた。
山城は車を降りてからずっと、疑いの眼差しで周囲を見回している。
「それで田中さん。あなたの言う『証拠』はどこにあるんですか」
部屋に入っても彼の態度は変わらない。
ごく普通の、生活感のある4LDKのマンションの一室だ。
隣は山城外科クリニック。
彼は腕を組んで、まるで値踏みでもするように部屋の中を見渡した。
「ここがあなたの自宅……。それで? 私に何を見せるつもりです? まさか、この部屋で違法な医療行為でもやっているとでも?」
苛立ちを感じる。
「いえ……こちらです」
オレは意を決して、玄関からリビングへ抜ける廊下の中ほどにあるドアを指さした。
山城は顔をしかめながら中をのぞき込んだが、そこにあったのは当然、オレがいつも使っていたありふれた便器だ。
「……何だこれは? ただのトイレじゃないか」
苛立ちが、怒りに変わったように見える。
「オレをからかっているのか! 暇じゃないんだよ! 病院を放り出してまでついてきた結果がこれか! もうたくさんだ、帰る!」
『私』から『オレ』に変わっている。
それほどの怒りと苛立ちなんだろう。
玄関に向かおうとした彼の腕をエリカがつかんだ。
「待って山城君! お願い、あと少しだけ! 日没まで……日が完全に沈むまででいいから!」
「エリカ、君まで……! 一体、オレに何を信じろと言うんだ!」
「信じなくていい。ただ、見てほしいの」
彼女の必死の訴えに、山城は忌々しげに舌打ちをしながらも、しぶしぶソファに腰を下ろした。
部屋には重苦しい沈黙が流れ、窓の外が、刻一刻と深い群青色に変わっていく。
緊迫した空気を破ったのは、玄関のドアが乱暴に開く音だった。
「健太! 戻ったぞ」
マルクスを先頭に、レイナたちが大きな段ボールや、明らかに銃器が入っていると分かる細長いバッグなどを次々と部屋に運び込み始めた。
あっという間に部屋の隅はさながらテロリストのアジトみたいな有様になる。
山城の顔が、疑念から恐怖へと変わっていった。
「君たちは……一体何なんだ! ? これは……武器か? 薬品まで……。犯罪じゃないか! 警察に……警察に通報するぞ!」
「山城院長、お待ちください! もう一度だけ……もう一度だけ、あのドアを開けてみてください!」
「まだそんなたわ言を!」
山城はヤケクソ気味にトイレのドアノブに手をかけ、乱暴に開け放った。
「う……あ……」
凍り付いた。
あるはずの白い便器も壁も、すべてが消え失せていたのだ。
ドアの向こうには完全な暗闇に包まれたゴツゴツとした岩肌の地面が広がっている。
ツンと鼻を突くアンモニア臭と、湿った土やカビのような匂いが、トイレの中からリビングにまで流れ込んできた。
「な、何だこれは……一体……」
「マルクス、始めろ! 時間がない!」
叫び声を合図に、マルクスたちが動き出す。
近くにあったトイレットペーパーをオレは穴に投げ込んだ。
それは重力に従って自然に落下し、向こう側の洞窟の地面にボトンと音を立てて転がっていく。
……物理的に存在する、別の空間だった。
山城は、目の前で起こる超常現象と、オレたちの統率の取れた動きを、ただぼう然と見ている。
詳しい説明をしている暇はなかった。
マルクスたちの動きには一切の無駄がない。
レイナとルナは、あらかじめまとめられていた薬品や部品の段ボール箱を次々とゲートへ運んでいった。
トムとアンですら、自分たちの背丈ほどある荷物を必死に引きずっている。オレとマルクスは、最も重いLRADのケースや、台車に乗せられた荷物を担当した。
引越しなんて生易しいもんじゃない。
まるで精密機械みたいに全員がそれぞれの役割を完璧にこなし、流れ作業で物資を異世界(ベータ宇宙と健太が命名)へと送り込んでいく。
魔法省の襲撃から逃げ延びたオレたちは、知らないうちに、即席の特殊部隊のような連携を身につけていたのだ。
「山城君、お願い! 医療用品は後であなたが手配して、この部屋に運び込んでおいて! 代金は必ず払うから!」
エリカが彼の腕をつかんで必死の形相で訴えている。
そして、最後にオレが山城の手に、合鍵と連絡先を書いたメモを無理やり握らせた。
「狂ってると思われるでしょうが、これが現実です! 彼女の要求が、ただの犯罪ではないと分かっていただけたはずだ! 明日、必ずこちらから連絡します! どうかお願いします!」
オレは深く頭を下げると、仲間たちの後を追ってゲートへ飛び込んだ。
――部屋に残されたのは山城一人。そして、開かれたままの異世界への扉。
彼はその場にへたり込みそうになるのを必死でこらえ、後ずさった。脳裏をよぎったのは、ここで夜を明かす選択肢ではなかった。逃げるんだ。一刻も早く、この異常な空間から。
震える足で玄関に向かい、転がるようにしてマンションの廊下へ飛び出した。
そして、まるで悪霊を封じ込めるみたいに、祈るような気持ちでドアを閉め、手に握った鍵で乱暴に施錠したのである。
カチャリ、という金属音が、彼を現実世界に引き戻してくれる……はずだった。
しかし、現実は変わらない。
あのドアの向こうでは、今も異世界への穴が開いている。
エレベーターを待つ余裕もなく階段を駆け下り、山城は自分の車に乗り込むと、タイヤを鳴らしてその場から逃げ出した。
向かう先は1つしかない。
科学と理性と常識が支配する、自分の城。
病院だ。
■同日 夜 総合病院 院長室
院長室に戻った山城は、震える手でデスクの引き出しからウイスキーのボトルを取り出した。
なみなみとグラスに注ぎ、一気にあおる。
しかし、アルコールは彼の脳の混乱を鎮めてはくれない。
机の上に置かれた無機質なマンションの鍵と走り書きの電話番号が書かれたメモ。
アレは夢か幻か?
理性が現実との整合性をとろうと必死にあがいている。
エリカの要求は、明確な不正行為だ。
院長の立場を利用した医療用品の横流し。
クリニックに搬入するのなら該当しないが、そうではない。
もし露見すれば薬機法違反となり、医師免許も社会的地位もすべてを失う。
だが……と彼は思った。
あのゲートと異世界の匂い。
実際に見た現実は、自分の知る物理法則や法体系を、遥かに超越している。
単に拒絶すればどうなるんだ?
彼らはまた現れるだろう。そして、オレは世界の秘密を知ってしまった。
警察に話しても狂人扱いされるに違いない。
もう後戻りはできない……協力するしかないんだ。
いや、いやいや、違う。
最善の選択肢があるはずだ。
夜は更けていった……。
次回予告 第23話 『科学兵器初陣とアルゴン仮説』
健太の社宅で山城を待ち受けていたのは、常識を超えた現実だった。
日没と共にトイレは異世界への『ゲート』へと変貌。
山城がぼう然と見守る中、一行は地球で調達した反撃の物資を運び込み、ゲートの向こうへと帰還する。
世界の秘密を知り、地球に一人残された山城は、恐怖と理性の狭間で、協力者となるか否かの究極の選択を迫られる。
次回、地球から持ち帰った『知識』と『技術』と『力』でどう立ち向かう? そんな中、ルナが魔法に関する大胆な仮説をぶち上げる。その仮説とは? 魔法の秘密が解き明かされるのか?

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