安政六年五月六日(1859/6/6) 江戸城 御用部屋
「なに? 英国人だと?」
日英和親条約を含め、イギリス以外にもフランス・ロシア・オランダと結んでいた条約は、協議を必要とするものの、最恵国待遇に準ずる内容であった。
従って日米通商条約が締結された後、イギリスのオールコックが参府したのは当然の成り行きであったが、内々に、というのが井伊直弼の頭に引っかかったのだ。
直感と言ってもよいだろうか。
直弼は、自分にとってのこの行き詰まった状況を打開できる可能性を感じたのだろう。すぐに面会の準備が整い、オールコックは3日後に登城することになった。
「井伊|掃部頭《かもんのかみ》である」
「イギリス駐日公使、ラザフォード・オールコックです。今回、謁見していただき、ありがとうございます」
両者とも短く挨拶を交わすが、お互いの胸の内は簡単には明かさない。
「内々に(非公式に)話があると聞き及んでおるが、なんであろう?」
オールコックはニコリと笑い、話し始めた。
「まずは、これは公式な事ですが、先だって貴国とアメリカが通商条約を結んだと聞きました。そのため我が国とも同様の条約を結んでいただきたく参上しました」
「これはこれは、耳の早い事で。まだ|仏蘭西《フランス》も|魯西亜《ロシア》も、|和蘭《オランダ》でさえも|然様《さよう》な事はいうて来ておらぬというのに。清国で……忙しいのではござらぬか」
直弼はアロー戦争の事をいい、日本にかまけている暇があるのかと皮肉ったのだ。
「ははははは、カモンノカミ様もお耳が早い。しかしそれはそれ、これはこれです。よろしいでしょうか」
直弼はふうっとため息をつき、返事をする。
「あい分かった。まあ遅かれ早かれであるからな。よかろう。ただし詳らかな内容は都度談合いたさねばならぬ」
「もちろんです。……それから2つ目は、カモンノカミ様は、何かお困りではありませんか?」
直弼はオールコックの予想外の質問に一瞬驚きの色を見せたが、すぐに平静を取り戻した。
「何を言っておる。我が国の内政に口を挟むつもりか?」
オールコックは静かに微笑んだ。
「いいえ、そのような意図はございません。ただ、カモンノカミ様の立場が難しいことは、外からでも見て取れます。幕府内の保守派と開国派の対立、朝廷との|軋轢《あつれき》……」
直弼は眉をひそめた。
「それがどうした」
なぜ|攘夷《じょうい》派と開国派、合議派と譜代政権派などの国内の事情を知っているのだ? 直弼は湧き上がる疑問を悟られぬように平静を装っている。
「我が国は、日本の安定した政権と取引をしたいのです。もし何かお力添えできることがあれば……」
直弼は心が揺らいだが、すぐに気を取り直した。
「ほう……然様か。然れどそれは内政干渉というものではないのか?」
ははははは、とオールコックは笑って返答する。
「とんでもありません。我が国は貴国の内政に関与するつもりは毛頭ありません」
「では何だ? なにゆえ然様な申し出をしてくるのだ」
「先ほども申し上げました通り安定した政権、安定した政府、すなわち安定した国と取引がしたいのです。それはつまり、カモンノカミ様の政権、カモンノカミ様が掲げる政治形態なのです」
……。
それはつまり、わしのやり方、これまでの譜代中心の政権運営を助けるという事か? しかしいったいどうやって?
直弼の疑問はつきない。
「保守党と自由党。我が国でも違う思想で同じような争いはあります。そしてその争いに勝たずして、満足のいく政権運営などできないのです」
もちろんオールコックが言う戦いは、言論での戦いである。選挙であり議会における論戦で、日本における|天誅《てんちゅう》などの、武力をもって敵を排除する事などではない。
「ほう? 貴国のような文明国とやらでも争いはあるのか?」
「日常茶飯事です」
……日常茶飯事? それでは戦乱ではないか?
通訳は万次郎ではない。万次郎はまだ通訳や他の仕事をしていたが、間に合わなかったのだろう。
「ふむ、まあよい。して、貴国は我が国の、このわしの政権運営のために何をしてくれるのだ? そして何を求めるのだ?」
オールコックはしばらく考えていたが、ゆっくりと話し始めた。
「まずは貿易においてです。すぐれた技術はもちろんですが、特に武器弾薬、そして軍艦を提供します。さらにはそれを操る人材を育成するための教官や技師も派遣いたします」
オールコックの提案を聞いた直弼は、一瞬目を見開いたが、すぐに平静を取り戻した。
「ほう……武器や軍艦か。確かに魅力的な申し出だな。然れど武器軍艦に関しては他の国も同じであろう? 自由貿易ならばその他の国からも輸入は能う。それに人材育成にはすでに和蘭から招いて操練所をつくり、日々鍛錬に励んでおる」
直弼の反論をじっくり聞いた後、オールコックは理路整然と続ける。
「確かに自由貿易です。しかし世界に国は数多あれど、我が国ほど多くの海外領土を有し、強大なる軍隊、艦隊を備えている国はありませぬ。ゆえに武器も最新で最強なのです。それからオランダなどは、すでに斜陽の国ですぞ。オランダが持っていた領土は、インドシナを除いてほぼ我が国の領土となっております。オランダは、もう過去の国なのです」
直弼はオランダ風説書の事を思い出しながら聞いていた。
確かに貿易相手国に対して、自国の不利になるような情報は載せるはずがない。それにしても、イギリスから見てオランダがすでに過去の国とは……。
直弼の思考が巡る。
「なるほど。貴国の武器や軍艦が最強なのはわかった。然れどそれが、|如何《いか》にして我が政権の安定、すなわち譜代中心の政権運営に関わってくるのだ?」
直弼の言葉にオールコックがニヤリと笑う。
「そこです。そもそもなぜサツマやミト、エチゼンやトサなどが政治に口を出すようになったのですか?」
「なに?」
直弼はオールコックの核心をついた質問に意表を突かれた。
「失礼を承知で申し上げますが、それはつまり、幕府が弱くなったからではありませんか? 例えば幕府独力でわれらに対抗する軍事力と財力があれば、他のダイミョウが口を出してくることは、なかったのではないでしょうか?」
「……」
オールコックの言葉は言い得て妙である。極論を言えば攘夷を実行できる軍事力が幕府にあれば、ここまで外様や親藩の政治介入はなかっただろう。
任せておけない、という意識で発言をしたり介入してくる藩が増えてきたのだ。
「なるほど、仮にそうだとして、如何にすれば公儀を強くできるのだ?」
「輸入を、禁止なされませ」
「? ……何?」
「貿易が開始されれば、間違いなく他のダイミョウも武器弾薬と軍艦を買うでしょう。金さえあれば作るより早いですからね。しかし、それを禁じればどうなるでしょう? 幕府の力は強くなり、ダイミョウの力は現状維持。つまりは弱くなるのではありませんか?」
直弼は一瞬言葉を失った。オールコックの提案は、確かに幕府の力を相対的に強化する可能性を秘めていた。しかし、同時に大きな危険も伴う。
「なるほど。然れどそれは、大きな反発を生むのではないか?」
「確かに。反発はあるでしょう。しかし、ショダイミョウに防備をさせたのはなぜですか? 我々に備えるためでしょう? ならば条約を結んだので脅威はなくなりました。備える必要がありません。国として幕府の軍隊だけあればいいのです」
「……即答はできぬ。然れど面白い提案ではある。後日結果を伝えるゆえ、控えておられよ」
■長崎 オランダ領事館
「クルティウス殿、久しいですな。元気にしておられましたか?」
「おお! これはジロウ殿、元気ですよ。あなたは?」
「|某《それがし》は相変わらずです」
わはははは! となごやかな笑い声がする領事館の2階である。
「しかしさすがですね。ジロウ殿ならやるだろうと思っていましたが、我が国は他国に比べるとゆるやかに事を構えていました。アメリカの言い分をここまで変えさせ、ほとんど損のない条約締結は見事です」
次郎は照れ笑いをしつつも、真剣な表情でクルティウスに聞く。
「ここまでは上手くいきすぎました。むしろこれからだと考えています。ただ、どうにも嫌な予感がしてならぬのです。イギリスとフランスは戦争で清国へいき、その間にアメリカと結びました。イギリスがなにか企んでいないか心配、というか懸念が無きにしも非ず、というところです」
「イギリス人は|狡猾《こうかつ》ですからね」
クルティウスの言葉には英蘭戦争に負けてから50年近くたっても、そのオランダの屈辱が見え隠れしていた。
「ところで、以前交わしたお約束は、口約束ではありましたが、有効ですね?」
「もちろんです。ジロウ殿も、もし幕府の心変わりがあれば、頼みますぞ」
「わかっております」
次回 第234話 (仮)『日米通商条約附録と横須賀造船所』
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